他人と比べることで幸福感を得る者はいずれ離婚する

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幸福感。

 

婚姻生活を持続させていくには重要なものだろう。

無論、常に感じていなければならないものではないが、
要所要所でそれが感じられない生活は、やっぱりお互いにキツイね。

だって、ただの共同生活の延長線上にしかならないんだもん。

婚姻生活は、ただ一緒に住んでいるだけの関係ではないから、
そこにはやはり、幸福という合理性以外のつながりはあって然るべきだと思う。

 

じゃあ、幸福感ってなんなのかって話なんだけれど、
これについてはまた形の無いものを論ずる体になるので、今回はやめておく。

酷く疲れるんだ、アレは。

 

ただ、幸福について何なのかに関しては論じないが、
その健全な感じ方については、多少ここで提言しておきたい。

 

幸福論は、主観だよ。

客観性をもって表現するものでもないし、感じるものでもない。

 

なぜかというと、客観性のある幸福の形とは、
対外的にそのように見続けられる必要があるもので、終わりがないからだ。

バロメーターを主観に置かない以上、自分で見切りをつけることもできない。

だから、いつまで経っても満たされた思いもできず、
常に新しく刺激的な幸福の形を追い求め続けることになるだろう。

 

はっきり言って、こういう幸せの感じ方しかできない人は惨めだよ。

結局のところ、自分で幸福というものを感じたことが一度もないのだと思う。

 

対比をもって感じる幸福がないとまでは言わないが、
そういった幸福と主観で感じる幸福は、またベクトルの違ったものだろう。

 

たまには、そういうのもあって良いと思う。

しかし、それを幸福の主軸においてはダメだ。

 

それは、常に対比できる対象がいて、優越感を感じ続けられなければ持続しない。

だから、客観でしか幸福を図るすべを持たない人は、
常に「今よりもより良いものを」といった思考に走りがちなのだ。

 

いつまでも現状に満足することができず、
良さそうな家庭を見つけた途端、現状に不満を感じ、パートナーにも対応を強要する。

これは、主観で満たされていない人特有の行動だね。

一言で言うならば、幸福に対する主体性がないんだ。

 

主体性のない幸福論は相対的な評価ありきのものであって、
決して、家庭内の当事者達を幸福にはしない。

幸せであるかどうかは、外側から決められるものではないからな。

 

対比なんて偏差的な異物を家庭内に持ち込まれ続けたら、
押し付けられた一方はいつまで経っても落ち着けないだろう。

 

だから僕は、幸福というものを相対的に捉えるべきではないと思っているし、
一方がそうしている家庭は、いずれ離婚に陥るだろうと考えている。

 

自分の幸福は、自分で決めるんだよ。

 

客観的な物差しで測った己の幸福なんて、虚しいだけじゃないか。

 

 

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