愛情や怒り、悲しみまで法律上で解釈しようとするんじゃない
人は感情ゆえに怒り、悲しみ、そして愛するものだ。
感情とはある種の爆発であり、
「それ故に爆発した」などという論理解釈上で説明のつけられることではない。
しかし、他人がそれを評価するような場所においては、
それを第三者が理解できる形にして提出することを要求される。
離婚手続き界隈では、当事者の感情についてまで論ずるようなことも少なくない。
それについては状況説明上で仕方のない面もあるが、
結局、そこについてまで「戦略性」を含められたりするから一気に陳腐化する。
以前の弁護士達の作文の件でも触れたことだが、
当事者の怒りや悲しみ、愛情についてまで、解釈の余地をねじ込んできたりもするんだ。
これが、実にくだらない。
想いや感情は内に秘めているからこそのもの故に、
それに対する証左など存在しない。
しかし、司法の場では当事者同士が主張の出し合いになるため、
対外的に表示できる証左が求められる。
感情の言語化を強要されるというのは、如何ともしがたい無力感を感じさせられる。
爆発の伴わない感情表現など、
踊らず、飛び跳ねもせずにブギを歌っているのと同じだ。
論理化はある種、感情の死滅を意味するものでもある。
活字にするからといって情緒面がなくなるわけではないが、
「そのように感じ取ってもらおう」などという狙いありきのものは感情ではない。
違う、断じて。
それは理由があるわけでもなく、どこかから要求されるわけでもなく、
己の内側から勝手に沸き起こってくるものなのだ。
それに解釈の余地を加え、戦略性をもって陳腐化させる行為は、
利益を得るために相手の人間性を意図的に否定しているのと変わらない。
係争中という建前があるからといって、
そういった行為を容認している司法の場は、やはり少しおかしいんじゃないかと思う。
僕は昔から野球とかでのヤジ飛ばしが大嫌いだったんだけれども、
アレに通ずるものがあるな。
やる気を削ぐのも戦略の内という考え方もあるのだろうが、
試合中という建前があれば不快な言葉を投げつけてもいいみたいになっている側面もある。
もう少し、芯を入れた議論をせんか。
挑発や嫌がらせも踏まえた上での議論など、
表面上は大人しくしているだけで、やっていることは子どもの喧嘩みたいなものだ。
少なくとも、家庭内での物事を語る議論法として採用も許容もすべきではない。
戦略性を持ち込んだ家庭内に対する答弁など、
議論として形骸化しているとしか言いようがないだろう。
行政書士明和事務所
吉田 重信
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