大きい人物を演じただけでは人の心を捉えられない

所感等世の中の出来事,思うこと,生き方,男の人生

 

 

奇抜なものや突拍子のないものがウケる世情にあるな。

しかし、演出が伴っているものは所詮、虚構に過ぎないから、
ポーズとして見せることはできても、人の心を打つような話などできはしないだろう。

 

単純な話、印象に残らない。

だから、いつまでも新しいものを出し続けなければ忘れられてしまうし、
同じようなことをしていたら飽きられる。

 

本当に刺さるものって、一度目に入ったら忘れないものだし、
時間が経っても改めて思い出したり、もう一度見に行ったりするもんだよ。

 

それはすなわち、感情に訴えるものがあるからだと思う。

 

感情として刻み込まれたものは、記憶とは別のベクトルで存在する履歴だ。

忘れたりするようなものではないし、
同じ感情をまた味わおう、思い出そうとして何度も同じ場所に訪れたりする。

 

文章を書いたりするにしてもそうだが、
コンテンツを作るからには、やはりそういったものを手掛けていきたいよね。

頭を使って書いたりしたものは、所詮、知識や経験の披露でしかないから、
情報としては興味深いものも書けるかもしれないが、コンテンツとしてはそこまでだ。

内容を知った後は備忘録くらいにしかならない。

 

それだと、やっぱりつまらないよな。

 

じゃあ、印象深いものを作ろうかと思ったとしても、
そういう自分を演じて作ったんじゃあ、やはり頭を使った領域を出ないだろう。

 

本当に人の心を捉えるものとは、ナチュラルに出てくるものではないかと思う。

作法に則っていなくとも、破天荒であったとしても良い。

 

素の自分で率直に思ったこと、感じたこと、
それを素のままで出すから人の心にも刺さるし、結果的には破天荒という印象も与えるのだろう。

 

要は、破天荒なんてものは結果論ということだね。

自らそれを演じてみせることで、周りから持ってもらえるような印象ではない。

 

周りにどう思ってもらえるか、なんて考えなくていいんだよ。

元々持っているその人の素以上に個性のあるものなんてないんだからさ。

 

僕がブログとかをこんな崩した文体で書いているのも、それが一番自然体でいられるから。

ただ、まんまの状態じゃあ、「うわぁー」とか「ぐわあー」みたいな感じになるから、
ちゃんと他人が識字できるように成文し直してから出しているけれど。

だから、僕は筆が遅いんだな。

 

でも、やっぱり自然体でいられることを一番大事にしているよ。

コンテンツには知識や経験ももちろん伴うんだれど、
それに対してどう感じたか、思っているかについてはおもくそ素で書いている。

 

だから受けつけない人はいて当然なんだけれど、
刺さる人には刺さるみたいだね。

 

 

ムカつくことにはムカついているように書いて、なにが悪いのか。

なんか、そういうところなんだろうね。

 

頭ひねって出したもんって、所詮、そう見られたいっていう演出ありきのもんだから、
ナチュラルで出てきたものとは受け取られ方が違ってくるよな。

 

 

行政書士明和事務所

吉田 重信

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