弱者を守ると言っている者に本当の弱者は守れない

所感等世の中の出来事,冤罪被害,思うこと,男女格差

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行政書士明和事務所

行政書士 吉田 重信

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弱者救済というコンテンツは、この界隈ではメジャーな活動の一つでもある。

虐げられている人達を法をもって救済するというのは、
対外的にもわかりやすく、受け入れられやすい士業の活動と言えるからね。

 

しかし、そういった活動をもってカヴァーできる範囲に関しては若干の疑問も残る。

 

言い得て妙な話ではあるが、
社会で「弱者」と認識される者は自らを弱者であると申告できる者でもある。

 

若しくは、一般論として社会から弱者と見られがちな者達か。

いずれにしたって、立場上の自己表現があった上で受け入れられるものだろう。

 

己自身を弱き者だと訴え出られる者など、一般社会では少数派だ。

少し考えてみると理解できるかと思うが、
権利意識に敏感で虐げられている自覚をもった状態では、円滑な社会生活を送ることは難しい。

 

これは人権意識が高まっている今のご時世であっても変わらない。

用意されている相談窓口等が隔離されていたりするのは、その証左でもある。

 

ゆえに社会生活を送る上ではそういった声は表に出にくいし、
そうなると必然的に弱者というカゴの中にはバイアスのかかった者しか存在できない。

 

声を上げることができた弱者という、ある種の特別な存在だな。

あるいは、初めから弱者という立場を得ることを目的に据えている者か。

 

もちろん、被害申告の全てがそんなものであるとも思わない。

真摯に被害を訴え出た結果、そういった立場になる場合だってあるだろう。

 

ただ、なんていうんだろう。

本当に参っている人は泣いている姿を見せている余裕すらない感じ。

 

だから、これまた言い得て妙だけれど、
弱者の中に本当の弱者は存在できないのではないかという話だ。

 

それ故に自分の救う相手を「弱者」とカテゴライズしてしまっている時点で、
弱者を救済することは不可能なんだよな。

 

本当に助けが必要な人って、そんなところには転がっていないはずなんだよ。

 

救済の必要性はカテゴライズによって算定することなどできない。

むしろ、そうしてしまうことによって弱者認定された者に対する救済の訴えが、
ただのポジショントークになってしまうような場合だってある。

 

この手の事例に対応する上で最も重要なのは相手を弱者として扱うことではなく、
どんな人に対しても普遍的な権利意識を持って接することができるバランス感覚なのだと思う。

率直に言えば、偏見のない目といっていい。

 

女とか子どもとか、世間的に理解を得やすい弱者をカヴァーしているだけでは、
声が上げられない、通らない者達の受け皿にはなれないだろう。

 

 

こんな話をするのは弱者救済という謳い文句が、
それで利益を得ている者達に体よく利用されているだけでは、と感じるような事例が多いからだ。

 

声を上げた弱者が嫌いなわけじゃないよ。

 

 

ただ、声がデカかったり弱目立ちしたりする者だけが救済を受けられている実態に対して、
拭いされない違和感を感じているだけだわ。

 

 

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